57歳の若さでした。
ついこの間のある晩、先輩から件名なしのメールがきて「誰かから連絡きた?」とあり、
またまたー、と思った私は「今度誘ってくださいよー」くらいの返信をしたら
「いい話じゃないんだ、Jonが」とあって。
私が知っているJonの話をします。
神奈川県に住む一介の高校2年生だった私は、1年生の時から見ていたModel Productionという、関東の大学生のミュージカルを見に行き、
題目は「Promises, Promises」(アパートの鍵貸します、のミュージカル版)でした。
今回は演出家がアメリカ人なんだなあ、と思って、果たしてそれはJonでした。
そのころ、20代後半から30代頭のJonは、学生の英語劇指導にとても熱心で、英会話学校MLSでも講師として活躍していました。
女優藤田朋子さんや、宮藤官九郎夫人であるところの八反田理子さんが、そのころMLSの舞台で活躍した時に、ディレクターであったのはJonでした。
MLSの生徒ではなかった私が中学2年の時に最初に観たミュージカルは、「The Sound of Music」で、Captain Trappを演じたのがJonで、正式に言うとJonにあった(てか、観た)のはこの時が初めてです。
時は流れて英語ミュージカルに憧れ焦がれた私が大学に入り、Model Production 86、87とスタッフ、コミッティーで参加し、3年次の88年にディレクターに就いてくれたのがJonでした。
題目は「Rebel without the Cause」(理由なき反抗)。
ジェームス・ディーンの代表作です。
今となってはJonがどこでこの脚本を見つけてきたかは知らないのですが。
2年3年と実行委員(コミッティー)になった私は、早くからJonと打ち合わせを始めました。
杉並区久我山の変な一軒家に、「My House is Your House!」と招き入れてくれ
至る所好きにペイントされていたり、鍵がないトイレは誰かが入ると自動的に音楽が流れたり、ベッドルームが異常に広かったり。
当時Jon独身で、30ちょっと。普通にイケメンで、熱くて優しい、変なところで頑固なアメリカ人。
ここだけの話(ってか、今更なんだかw)
3年になる春に、高校生の頃から憧れたMPのオーディションを受け、ざっくり落とされたことと。
学校の友人後輩先輩がそろってキャストに選出されたこと。
ダブルショックで、夜Jonの家を出たその場で誰も見ていないところで、悔しくて泣き崩れました。だってキャストやりたかったんだもの。
今となれば、その時の私には、必要であったキャストの要であるギャング性も、それを見守る母性的なものも備わっていなかったのでした。
きっぱりと、コミッティーに専念しようと思ったものの、スタッフサイドはどうにもしっくりといかず、首脳陣が固まらず、大道具チーフの中さん(実名w)にすがったものです。
あのとき中さんがいなかったら、舞台は幕を開けられませんでした。
もちろん舞台監督の健ちゃんや塚ちゃんがそのあと頑張ってくれたおかげでもあります。
MPは春の風物詩で、5月の公演が終わったら解散します。
実は89年のオーディションの前にJonから直接「君ががんばり屋だということも、キャストがやりたかったという気持ちもよく分かった。89年のディレクターに紹介するよ」と言ってもらったんですが、さすがに大学4年の就職活動期とゼミ活動に時間を取られてしまうので、丁重にお断りしました。
で、春になってもぞもぞ、就職活動も適当にメンバーでもないのに居残ってリハ場に通っている、という体たらくでw
そして90年初春の、関東英語劇界の伝説となる「AZ」(アズ)の公演へとつながっていくのでした。
Jonはほいほいと、MPの時と同じようにバイクに乗ってAZ1のリハ場に来てくれて、2年後のAZ2の時には(親友のとおるさんがキャストで)(ちゃっかり)(また自分がやりたくなっちゃったから)ディレクターを買ってでてくれました。どれだけ日本の学生と英語劇が好きだったんでしょう。
人生いろいろ流れます。
ESSの人間は基本的に英語を勉強しているので、海外勤務につく人も多く、アメリカやヨーロッパやアジア各国に、日本でも各地に勤務地が広がったので、東京にいる人はすくなくなりました。私は彼らをいいなー、と羨みつつ、日本で英語と会計のおべんきょをしていました。
行き遅れの私が嫁に行った、07年の夏。
先輩に恵比寿である芝居があるよ、来ない?と声をかけてもらいました。
とっくに久我山を引き払い、結婚もして、アメリカやイギリスに行っていたというJonも来るよ、と聞いて久々の再会にちょっとときめきました。
「How’re doing?」
「Fine! How have you been!?」的な、お約束の挨拶が口をついてでました。よかった。
Jonはニホンゴペラッペラナアメリカ人なので、こっちがなあなあの会話をしても理解してくれるのですが、こっちは友達とはいえ生徒なので、英語で話します。
「なんでまだそんなに英語で話せるの?」とJonに聞かれて
私は「だってしゃべるのがすきなんだもの」って返しました。
英語を勉強していてよかったと思った瞬間でした。
その後またJonがアメリカに行っているよ、と聞いて。
3年前の秋、また学生の英語劇大会でJonを見かけて
「Jon! いつ帰ってきたの?」
「去年だよ、またあとでね」
「See you!」
それがJonと私の最後の会話でした。
Jonの病魔は、Cancerでした。
それも再発ではなく、原因もよくわからない難しいCancerで
ご家族でも、Jonと奥様とだけで、娘さんにも息子さんにも内緒にしていて
ましてや親友の、とおるさんにも伝えるな、とのJonの強い意志で。
痛みに苦しんだことでしょうに、Jonは、Cancerは僕の友達なんだ、と
すっごいポジティブに向かい合い。
逝ってしまいました。
泣いたよ。めちゃめちゃ泣いたよ。
でも、あなたのおかげで20年ぶりとかに会えた友達もいたから
気が付いたら笑っていたよ。すごいしゃべっていたよ。
あなたが見ていた私はものすごいおしゃべりだったものね。
しゃべんなきゃ私じゃないかもね。
今はネット社会で、便利なツールがあったもんで
繋がりにFacebookに手を出してみました。
みんながJonについて、思いの丈を語っています。
人はみんな生まれて育ってやんちゃやって落ち着いてやがて老いて逝く。
そのタイミングは、Jonの場合ちょっと早かっただけでしょう。
もっと前に神様に召された仲間もいる。
私たちも少しの間悲しんで、そしてまた各々の生活を営んでいきます。
見守っていてください。
Rest in Peace.
My dear Jon Brokering.
From Hiromi